『BADモード』短評

※とある講座の課題として書いた文章です。

 

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共感。共鳴。共振。

音楽が自分のものになるのは、自分と音楽が重なった瞬間だ。

 

眠れない夜が続きメンタルを病んでいた、そんなタイミングでリリースされた宇多田ヒカル『BADモード』。

アルバムに漂うフィーリングが、今の自分にしっくり馴染む。

それを認識した瞬間、稀代のスターは僕だけの存在になった。

きっと、スターとは「僕だけの存在」の集合体なんだろう。

そんなことを思いながら、僕だけのこのアルバムをひたすら聴いている。

 

でももしかしたら、このアルバムのせいで自分はBADモードから抜けられないのでは?

そんな気がしてきた。

このドラッグのようなアルバムを、BADモードを、そろそろ断たなければ。

依存性に要注意。

 

(296字)

2021年の1曲

※とある講座の課題として書いた文章です。

 

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ドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」の主題歌として制作された「Presence Ⅰ」〜「Presence Ⅴ」。STUTSによるトラックの上で、5人のラッパーと主演・松たか子がコラボレートするという企画で大きな話題を呼んだ。

 

この曲の特徴を一言で言うと、「越境」だ。企画性と作品性の両面から、ヒップホップとポップス、ラップと歌、アンダーグラウンドとメインストリームの間の壁を、軽やかに、鮮やかに超えていく。筆者がこの曲を2021年の1曲として選んだ理由も、その越境する様こそが日本の音楽文化における一つの結実に見えたからである。J-POP=日本の大衆音楽では、2010年代半ばからその枠組みの中でジャンルをクロスオーバーさせるアーティストが台頭。それにより今のJ-POPシーンは確実に面白くなっている。この曲はその極地にある、最高の2021年の「J-POP」だと言えよう。


参加アーティストに着目すると、KID FRESINO、BIM、NENE、Daichi Yamamoto、T-Pablowという気鋭のラッパーたちが地上波でフィーチャーされたことの意義は大きい。そして彼らと交わることで、十分すぎる実績と知名度を持つ松の新たな魅力が垣間見えたことが、この曲が幸福なコラボレーションだと言える所以である。また、この曲では劇中で3人の元夫を演じた俳優陣もラップパートに参加。それも単なる話題性ではなく作品に新たな彩を添えていたという点は、この時代にマスメディアで“仕掛ける”ことを考える上でも特筆に値する。特に、「Presence Ⅲ」での東京03角田晃広の活かされ方——1番で角田らしい無骨なラップを、2番で一転して加工を施したメロディアスな歌を魅せる——は素晴らしかったと筆者は思う。そのような角田の活かされ方も、近年役者としても活躍の幅を広げる芸人・角田の姿そのものも、まさに「越境」である。

 

楽曲自体の越境する様にも通ずる、松の流れるような歌唱に載せて歌われるのは、〈心の中に残る後悔へ 大切に何度でも呼びかける〉〈ここから始まる 新しい朝に向けて 夢はもう醒めた〉というシンガーソングライター・butajiによる詞。過去への複雑な感情と、その過去を否定せずに未来に向けて歩み出そうとする詞が、平易な言葉を用いながらも、そんなに単純じゃない社会を生きる私たちの現実にそっと寄り添う。〈曖昧で 純粋で 私が自分で決めた幸せの姿〉という詞も、バツ3の主人公・とわ子の姿とも重ねられて、2021年的な社会へのメッセージといえる。自分の幸せの形を決めるのは、社会ではなく、他の何者でもなく、自分しかいないのだ。そんな当たり前のことを本当の当たり前にしていくために、2021年も多くの人が声を上げた。

 

この曲には、企画性としても、そして過去→未来を歌う詞としても、いろんなものを超えていく「流れ」がある。その「流れ」があるからこそ、その流れの中でも揺らがない確かな存在=Presenceである「私」、そして時の流れの中で「私」が存在する場所である「現在」が強く刻みつけられる。だからこそこの曲は、2021年を生きた私たち自身の現在を映し、私たち自身の現在に響く力を持っているのではないだろうか。


この曲が2021年を象徴するのは、音楽シーンであり、社会であり、過去への後悔は尽きずともそれでも2021年を生きた、私たち自身である。時代の流れの中で2021年にこの曲が存在したことは、いつか振り返られる確かな出発点となるだろう。

ひとり

ライブとか美術館とかよく行くけど、だいたい1人で行く。

ライブも美術館も、誰かと一緒に行くことに理由を見出しにくい。

ライブも美術館も、アート/アーティスト/絵画/音楽と1対1で正対するための時間/空間だと思っているしそれを楽しんでいるから、誰かと一緒に行くことに積極的な理由が見当たらない。

そうはいっても誰かに誘われれば喜んで一緒に行くし、それはそれで楽しい。

確かに楽しいけれど、それの何が楽しいかといえば、自分1人では行くことがなかったであろうライブ/美術館などに行くこと(どこに行くかというチョイス)であったり、ライブや美術館に行って帰る道中の他愛もない会話が楽しいのであって、ライブという体験、美術館という体験そのものが、他者の存在によってより魅力的になるかといえば、そうではないように思う。

おそらく誰かとそういう場所に行くときのメジャーな楽しみ方として、「感想を語り合う」というものがあると思うが、それがあまりピンとこない。

アートに触れても自分は言葉が何も出てこない。

そのアートから、アーティストから、めちゃくちゃ何かを感じて心の中がザワザワしたり、ワクワクしたり、ゾクゾクしたり、モヤモヤしたりしているけれど、それを言語化することができないから、隣にいる人と語り合う言葉がない。

話そうと思えば話すことはあるかもしれないけど、猫が書いてある絵を見て「猫が描いてあるね」とか「猫かわいいね」とか、現代アートを見て「すごいね」とか「よくわかんないね」とか、ライブに行って「あの曲やったね」とか「歌詞まちがえたね」とか、そういうチープで誰にでも言える”事実”に近い内容のことしか言えないし、そんなことはわざわざ口にしたくないな、と思う。

それ以上に大きくて大事なものが心にある中で、それが言葉にできないからといって、言葉にできる程度のどうでもいいことをわざわざ口にしても、あーそうじゃないんだよな、という気持ちになるし、そんな空虚な会話をするくらいなら会話なんてしないほうがいいと自分は思っている。

まぁ自分は音楽についてはわりと言語化したくなる方だし言語化するのは得意な方だと思うけど、それは会話として成立する類のものではないということもわかっているから、あまり声には出さない。

だから自分は誰かとライブや美術館に行っても、それを見ている最中も基本的に喋らないし、終わってからもそれについての感想はあまり言わない。

それが気まずいと感じる人とは行かないし、逆に色々と話しかけられるのも面倒くさい。

でも、だからこそ、それぞれが1対1でアートと向き合う無言の時間を他人と共有できるということは尊いことだなと思うし、それができる相手は尊い存在だなとも思う。

だから、誰かと一緒にそういう場所に行くことは嫌いじゃないし、むしろ好き。

 

美術館ってデートスポットの定番として言われることもあるし、実際美術館でカップルを見かけることはよくあるけど、みんなその”尊さ”の域を楽しむために美術館に行ってるのだろうか。

そうじゃないとしたら、アートを見て何を喋って楽しんでいるんだろう。

何を思ったか、みんなそんなに言語化できるものなのだろうか。

 

そんな話。

クルトガ

Twitterのトレンドに「クルトガ」があるのを見て、ふと思い出した話。

 

中学生のとき、全校集会が終わったあとに体育館でシャーペンを拾った。

さてどうしよう。

「シャーペンが落ちてました」と先生に伝えたところで、全校の中から「それ自分のです」と名乗り出る人がいるとは思えないし、そもそも1年から3年の各クラスで「えー今日全校集会のあとで体育館でシャーペンが落ちていました」と先生が呼びかけている様子も想像がつかない。

もっとそもそもなことをいえば、全校集会のあとで「シャーペンが落ちてました」と伝えられる先生も、職員会議の場で「シャーペンが1本落ちていたそうなので、各クラスで連絡をお願いします」と発言する自分の姿を想像して、きっと憂鬱な気持ちになるだろう。その気持ちは容易に想像がつく。

だから、自分がこのシャーペンを先生に届け出たところで誰もいい思いをしないし、このままシャーペンをほっといたとしたら、そのことを想像しない誰かが先生に届け出てしまうかもしれない。

それは不幸をもたらすだけだ。

 

というわけで体育館で拾ったクルトガを、ずっと大事に使い続けた。

大学受験もそいつのおかげで乗り切った。

 

本当の持ち主は誰だったのかちょっと気になる。

盗人の分際で恐縮だが、体育館でシャーペンを失くしてどれくらい困ったのか知りたいし、その程度に応じて謝りたい。

 

というか書いてて思ったけど、ただの超開き直り窃盗犯ですね自分。

8年越しに、罪を償いたい。

カレー

久しぶりにカレーでも作ろうかなと思って3食分くらいになる量のカレーを作る。

作ってすぐ食べながら、あー福神漬けを買うの忘れてたなと思う。

そして翌日福神漬けを買って、一晩寝かしたカレーに福神漬けを添える。

でも残り2食分のカレーで福神漬けを到底使い切るはずもなくて、もったいないのでまたカレーを作らなきゃな、となる。

福神漬けなんてカレーを食べるとき以外に食べるシチュエーションもないし、福神漬けを消費するにはカレーを食べるしかない。

これで明日またカレーを作って福神漬けを添えて食べたとして、そのとき自分は本当にカレーに福神漬けを添えていると言えるのか。

福神漬けにカレーを添えているのではないのか。

このカレーと福神漬けの主従関係の逆転現象。

”福神”漬けだなんて大層な名前だなと思っていたけど、その真髄はこのことに現れているのかもしれない。

 

 

昨日の夜カレーを作って、今日の夜も残りのカレーを食べた。

今日は面接でもなぜかカレーについてプレゼンしたから、カレーづくしの1日だ。

こうなってくると今日のお昼もカレーを食べればよかったなんて思うけれど、あいにく今日の昼は煮魚定食を食べた。

近くにインドカレーの店もあったのにもったいないことをしたなと思ったけれど、よく思い出してみると、そういえば食べたのはカレイの煮付けだったな、と思い出した。

なんかいいことがあるかもしれない。

 

理不尽

昼ごはんを食べた後のアルバイト中、眠い眠いと言いながら、1時間に1回ずつトイレに行くために席を立つ。

周りからはサボりに行ってると思われているかもしれないが、実際は、眠気を覚ますためにコーヒーを飲んで、そのカフェインの利尿作用によってトイレに頻繁に行きたくなるだけであって、ちょっとサボろうとか思っているわけでは全くない。

むしろ眠気を覚まそうとコーヒー代80円を払ったことを褒められるべきなのに、逆にサボりを疑われるなんて、なんたる理不尽。

理不尽な世の中に憤ることが多い最近だけど、これはその最たる例の1つ。

 

 

メニュー表に「フィレカツ」と書いてあったからちゃんと「フィレカツください」と言ったのに、「ヒレカツですね」と返されて、いやなんやねん、と思った。

こっちが「ヒレカツください」と言って、こだわりの強い店長の指導が徹底されたウェイターが「フィレカツですね」と返してくるのであれば理解できるけど、その逆はおかしい。

理不尽な世の中に憤ることが多い最近だけど、これはその最たる例の2つめ。

 

 

緊急事態宣言とか、休業要請とか、もう懲りゴリラと心の底から思う。

政治批判をここで書くつもりはないし、しょうもない駄洒落を入れたら軽い感じになるかなと思ったけどうまくいってるかはわからない。

ただ一つ、GWに開催予定で自分も行く予定があるロックフェスは開催されて欲しいと切実に願うし、開催されると信じてるし、期待してるし、楽しみにしている。

そのフェスのオーガナイザーたちは文化の担い手としての自覚と責任と誇りを持った人たちだから、きっと万全の準備と覚悟を持った上で実現してくれると信じているけれど、それだけに、もし開催されなかったとしたら、単にフェスに行けなくなるという以上に、社会や政治へのストレスからメンタルがやられてしまう気がする。

きっと彼ら/彼女らは、純粋に音楽とフェスを楽しんでほしいと思っているだろうけれどそれ以上の意味(クソみたいなルールにはもう従わないという意思表示とか)をこちら側が勝手に付してしまっていて、そのことは申し訳ないようにも思う。

でももうこうなったら、そういう意味まで全部背負った上で、フェスをやりきってほしいと心の底から願っている。

理不尽な世の中に憤ることが多い最近だけど、これはその最たる例の3つめ。

 

 

 

 

 

 

前世

マサマンカレーというカレーを食べた。

「世界でいちばん美味しい料理」とメニューに書いてあったので、お洒落な見かけによらずえらい強気な店だなぁと思ったが、そういうわけではなくて、何かのちゃんとしたランキングで選ばれたらしい。

どういう基準でだれが選んだのかわからないし、味覚なんて人それぞれじゃないか、その人が美味しければそれで十分なのだから、と思う。

感じ方も好き嫌いも人それぞれだし、他人と味覚を共有することは不可能なわけだし、それを客観的に論じようとすることになんの意味があるのか、と。

そうこう考えているうちに、あれこの話なんかに似てるな、とふと思った。

自分が音楽の批評について考えていることと同じ、いや、逆だ。

音楽評論家/ジャーナリスト/ライター…肩書きは様々だが、そうした類の人のTwitterのリプ欄には、いまさっき自分が書いたようなリプがいつも並んでいて、クソリプだなぁといつも思っていた。

音楽の受け取り方なんて自由だし自分が好きならそれでいいじゃないか、なんていうことを熱く宣っている人たちに対して、本当にくだらないなぁと思っていた。

だけど、自分がいま料理について、その人たちと同じようなことを言っている。

そのことに気づくと、なんだか恥ずかしいような、考え方を改めなきゃなというような気持ちになった。

何事も自分が好きなものに置きかえてみると、それを大事にしている人たちの気持ちがわかるかもしれない。

そういう想像力を大事にしよう、という教訓。

教訓なんてこのブログで書くつもりはなかったけど。

 

 

多角形って、何かのメタファーとしておもしろい気がした。

角が増えるたびに、丸に近づいていく。

辺=面が増えるたびに、丸に近づいていく。

角が増えるたびに、一つ一つの角は鈍くなっていく。

人間らしさを感じる。

 

 

ESで「あなたの前世は何ですか?」と聞かれた。

本当に全然何も思い浮かばなくて(もちろんこの”全然”は前前前世とかけている)、「就活 前世」で検索してもみたけれど、「猫:マイペースだから」みたいなやつばかりでくそつまらないし、思ってもない嘘を書く人間にはなりたくないから、自分で考えることにした。

そもそも前世みたいな概念は信じていないというかあんまり好きじゃないし、ましてや前世が他の生き物だったなんて到底考えられない。

考えられるとしたらせめて人しかない。

そうだそれだ、あ、いい理由も思いついたと思ってこう書いた。

 

前世:自分

理由:「人生1周してる?」「人生2回目みたいだね」と小さい頃からよく言われるから、そうなのかもしれない。

 

ユニークだし、ちょっと洒落が効いているし、達観した性格みたいなものも現れているから、なかなかいいじゃんと思って満足して提出した。

そういえば「人生1周してる?」とも「人生2回目みたいだね」とも言われたことはないことには、提出してから気がついた。

スラスラと嘘を書いていたけれど、不思議となんの罪悪感もない。

そんなもんかもしれない。

 

 

前回から2週間ほど空いちゃったけれど、最近わりと読んでもらっている感触があるので、ゆるゆる書き続けていこうとは思ってます。

それなりに、自分なりに、面白いものを書こうと思っているし、面白くないものは書きたくないという思いもあるので、シンプルにネタがないんですよね。

なのでまぁ、たまにふらっと覗いてもらえれば。