バス

上京してからバスに乗る機会がめっきり減ったけど、中高時代の6年間バス(と電車)通学をしていた。

バス通学で印象的に覚えていることは色々あるけど、バスに乗っていていちばん苦手な瞬間は、信号待ちで止まってエンジンを切った時の静寂と、その静寂の中で誰かが喋っている声がバス中に響き渡っているときだった。

記憶は脚色されるものではあるけれど、あの静寂ほど静かな静寂を他のどこでも聞いたことがない。

静寂とは聞こえるものなのだと学んだのはあのときだ。

そんな静寂の中で声を潜める素振りもなく平然と喋っている人が自分は信じられなくて、別に特別大きな声で喋っているわけでもないから彼ら/彼女らがマナー違反というわけでは全くないのだが、あなたたちのそのくだらない会話がバス中に響き渡っていることを知っていますか??と問いかけたい気持ちにいつも駆り立てられた。

全く共感しない人もいるかもしれないけれど、赤の他人同士のしょうもない(他愛もない)会話を聞いていると自分が恥ずかしくなってしまう。

ざわざわしている中で近くの人たちの会話が耳に入る分には構わないけれど、静寂の中で誰かの会話が響き渡っているのには耐えられない。

自分はデフォルトの声量がわりと小さいほうだけれど、それに理由を求めるとすれば、あのバスの静寂の中で赤の他人の話が聞こえてくることの恥ずかしさが、自分の話を他人に聞かれることへの恥ずかしさに転じたからだと確かに思う。

あのバスの中での静寂中に普通の声量で喋っている人は、きっと僕とは合わない。

 

 

好きな作家は伊坂幸太郎平野啓一郎で、下の名前に不思議な縁を感じる。

ついでに言えばTBSの藤井健太郎プロデューサーも、著書を買ったりインタビュー記事をくまなくチェックするくらいに好きだ。

この3人にあやかって、もし自分が芸名をつけることになったとしても下の名前はそのままにしようと思っている。

ハイキングウォーキング鈴木Q太郎は、別に好きじゃないけど。

 

 

自分が大大大好きな「秋山とパン」という番組と「伯山カレンの反省だ!」という番組が、3月で終わってしまう。

毎週15番組くらいTVerで見る馬鹿みたいな生活を送っているけど、その中でも好きな番組トップ2だったから本当に寂しい。

春は別れの季節だなと心から思った。

 

 

通学中のバスでは毎朝のように爆睡していたが、後ろの方の席に座っていたら自分の存在を運転手さんに気づかれることなくそのまま車庫まで連れて行かれてしまったことが一度だけある。

目が覚めると車庫にいて、やばいと思って見渡したらまだ運転手さんが運転席に座っていて業務記録のようなものを書いていたから、助かったと思った。

そして急いで運転手さんのところまで行って、すみませんと声をかけたら信じられないくらいに驚いた声を上げ、信じられないくらいに驚いた顔をしていた。

自分以外誰もいないはずの車内で声をかけられたのだから心底驚き怖かっただろうと、今になって思う。

水曜日のダウンタウンの「誰もいないはずの後部座席に人がいるドッキリ」の先駆けとも言えるかもしれない。

ターゲットにしてしまった運転手さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

 

7年か8年前

冷蔵庫と壁の隙間に箸を1本落とした。

お酒を割ったときに混ぜる棒が欲しいところだったから、残ったもう1本をそれにした。

ラッキー。

 

 

髪を切りに行ったら、両隣のお客さんは美容師さんと会話を弾ませていて、自分は積極的に話すタイプではないし、美容師さんから話しかけられることもなかったので黙っていた。

いつもそうだからそれはそれでいいのだけど、両隣があまりにも楽しそうに喋っているから、美容師さんに申し訳ないような気まずい気持ちになった。

でもこの申し訳なさも気まずさも自分が感じる必要性は本来ないし、どちらかといえば話しかけない美容師さんの方が悪い気がするし、でも別に美容師さんも悪くないし、じゃあ誰が悪いのかといえば意気揚々とガウディの建築について話していた隣の30代くらいのお客さんか、それともガウディか。

 

 

気になっていた近所のいい感じのカフェでコーヒーをテイクアウトした。

そんな毎日を送りたい。

 

 

7年前か8年前くらいの今日。

中学生だった自分は部活帰りにカラオケに行っていた。

30分17円だったか32円だったか、雑居ビルの2階か3階かにあったとにかく激安のカラオケ。

ラッドとか歌っていたら14時46分を過ぎていて、そのことに数分後に気づいて、

人の道に反したような、神様に見られていたような

でもみんな何も気にしてないし気づいてないし、まぁいっか

いや少なくともカラオケはよくないよな

と薄暗い狭い部屋の中で誰かの歌を聴きながら、ひとりそんな気持ちに包まれたのを思い出す。

 

 

より良い世界をつくるために何が大事か、と聞かれたら

ひとりひとりが想像力を持つことだと自分は思う。

相手の立場になってみたり、相手にもいろんな事情や背景があるのだと考えたり。

けれど、それと同じくらいに、想像はあくまで想像でしかないということ、想像と実際には確実な隔たりがあると認識することが必要だと最近は思う。

想像して誰かの気持ちをわかった気になったり、被災してないのに被災者と同じ感情を抱いていると思ったり。

想像はあくまで想像であり、体験していない自分と体験した他者は違うということ。

「自分は相手のことを知らない/自分は相手とは違う」という自覚と、それを補おうとして想像する営みと、「想像しても本当のことはわからない」という自覚がセットで必要なんだと思う。

「〜ない」ことも自分を形成する大事な要素で、その欠落を自覚すればアイデンティティとなる。

震災やそれ以外のことも、経験していない人間としてどうあるべきかということを、経験した人も経験していない人も、いろんな人が行き交う東京に来て、考えるようになった。

もうすぐ上京して丸3年経つが、それだけでも上京してよかったかもしれないと思う。

 

パルケ

3時に寝て、9時ごろに目が覚めて、

もう少し夢の続きが見たくて二度寝して、

10時ごろにアラームが鳴って目が覚めて、

でももう少し夢の続きが見たくて三度寝して、

また11時ごろに目が覚めて、

もうちょっとで夢の結末までいきそうだったから四度寝して、

そしたら夢がさっきまでの本筋からどんどん逸れていって、

よくわからないところに着地して、

なんだか損した気分になった。

もとのストーリーも最後の着地点ももう全部忘れてしまったし、午前中を返してほしい。

自分の怠惰への不満ではなく、夢の脚本家への不満。

 

 

近所の居酒屋さんのランチに行って定食を食べていたら、

テレビでザ・ノンフィクションをやっていた。

震災で同級生が犠牲になる中ひとりだけ生き残ったという、自分と同い年の男性を取材していた。

見入ってしまって、店員のおじさんも皿を洗う手を止めて見入っていて、食べ終わってもしばらくテレビの画面を見つめていた。

客は自分しかいなくて、なんだか不思議な空間だった。

 

 

 

近所のスーパーのポイントカードをつくれば良かったと3年前くらいからずっと思っている。

大学1年生のときに上京して最初に暮らした街では(街というほどの街でもなかったけど)、キャンパスが変わる都合でどうせ2年で引っ越すし、財布をスリムにしたいし、10万円ぶん買い物してやっと1000ポイントかと思って近所のスーパーのカードを作らなかった。

そうして1年くらい経った頃から、思っていた以上に買い物してるし、ポイントカード作れば良かったなぁと思っていたけど、どうせあと1年でこのスーパー使わなくなるから、大してたまらないようなぁと思ってやめた。

そして上京して2年経って新しいキャンパスの近くに引っ越したのだが、そこにも同じスーパーがあった。

ショック。

23区内に8店舗でそんなに大きなチェーンでもないし、そもそもチェーンということすら知らなかった。

でもこれで今になってポイントカードを作ると、これまでの買い物で得られたはずのポイントを損してしまう。

いつもカード大丈夫ですって言ってるのに今更作るのちょっと恥ずかしいし。

そんなこんなでいまだにカードは作っていないが、「カードお持ちですか?」と聞かれて「大丈夫です」と答えるたびに、少し後悔する。

というかまいたちのネタみたいな話。

次引っ越すときは、パルケがない街に引っ越そう。

 

 

 

滑稽

よく行くカフェのいつも座る2階の窓に向かう席からは、6車線の広い道路にまたがる横断歩道が目の前に見える。

長い横断歩道の真ん中には、中央分離帯の一部がくりぬかれたような、渡りきれない歩行者が次の信号を待つための細いスペースがある。

あそこで止まる人は滅多にいない。

もちろん窓の外をずっと見ているわけではないし、というか見ていない時間がほとんどだけど、少なくともここ10分間くらいは1人もいない。

と書いていたらちょうど今、30代くらいの男女がそこで止まった。

小走りすれば余裕で渡りきれたのに、なぜあそこで止まるのだろう、と思う。

自分だったらあそこで絶対に止まりたくない。

なんだか目立って恥ずかしいし、前からも後ろからも見られている気がするし、至近距離を車が両方向に走っていくのも怖いし、なんといっても恥ずかしい。

本来歩行者がいるべきでない道路の真ん中のあのスペースに、身一つでポツンと立っている自分を想像すると、滑稽にすら思える。

自分と合う人/合わない人の判断は、色んな言動の積み重ねの中で自然とされるものだと思うが、あそこで止まる人とは僕はきっと合わないだろう。

(いまあのスペースでこれを読んでいる人がいたらごめんなさい。あなたは例外です。)

 

❇︎

 

就活ばかりで(というほど全然頑張ってないけど)嫌になってしまうので、就活とは対極にあるようなこのブログを、また書いていこうかなと思っている。

まとまった文章を書くことがES以外にほとんど無くて、ESに嘘を書いているわけではないけれど、ESに書くような自分の側面ばかりが積み重なると、あまりに歪な形の自己認識ができあがってしまいそうで、怖くなる。

「成長」「競争」「ビジネス」とは真逆の価値観を体現したいというほど高尚な思いを持っているわけではないが、結果的にそうなっていればいいな、ということはなんとなく思う。

何かをポリシーとして掲げるとすれば、<「わかりやすさ」を追求しないこと>なので、何を言ってるんだろうというのを面白がってもらえると嬉しいかもしれない。

どうせすぐ飽きて更新しなくなるとは思いますが、そういう人間なので許してください。

良いものでも悪いものでも感想とかあったら伝えてもらえると喜びますし、自分から積極的な発信はしたくないけどそれなりに読まれたいという欲も少しはあるので、面白かったらシェアとかしてくれてもって感じです。

 

 

靴下の生

ちょっと前のことだけれど、アパートの3階の自室のベランダで洗濯物を干していたら、靴下を一足外に落としてしまった。

そんなことないだろうと思うかもしれないが、バスタオルを干そうとした時にバスタオルに靴下が乗っかっていることに気づかず、あの一瞬に何が起こったかは説明できないけれど、とりあえずいつの間にか落ちていた。

「あ、」「やってしまった」と思うと同時に、「取りに行くのめんどくさいな」と思った。

もちろん靴下が落ちているのはアパートの前の公共の道だから、誰かに迷惑をかけないように取りに行くのが人として正しいこととは認識していたけど、その正しさよりも面倒臭さの方が勝っていた。

たとえばバスタオルとか、下着とか、他のものを落としていたらきっとすぐに取りに行ったけど、ユニクロでまとめ買いしてからたぶん1年くらい履いている靴下だし。

いっそのこと、と思って、結局落とした靴下は取りに行かずに、ペアの片割れのもう一足の靴下も、ゴミ箱に捨てることにした。

その日は外に出ることなく家で1日を過ごし、翌日外に出たときには靴下はどこにもなかった。

 

それから2週間ほど経ったある日のこと。

バイトを終えて帰宅すると、アパートの玄関口に落とした靴下が置いてあった。

「だれかが拾って置いてくれたんだ、迷惑かけて申し訳ないな」と罪悪感を抱いた。

それと同時に、この2週間靴下はどこにあったんだ??という疑問が生まれた。

風に飛ばされたりして2週間だれにも見つからなかったのか?

それともだれかが2週間保管していたのか?

なんだか怖くなって、置いてある靴下を1回スルーして通り過ぎた。

そしてすぐに、まただれかの手を煩わせるのは申し訳ないと思い、戻って靴下を手にとって家に帰り、靴下をゴミ箱に放り投げた。

2週間という時間差で捨てられた靴下のペアに思いを馳せ、この靴下にとって2週間は長いのだろうか、短いのだろうか、それとも時間なんて存在しないのだろうか、と考えた。

なんだか怖くなって1回スルーしたのは、その靴下が2週間の「時」という意味を帯びているかのように、「時」を纏っているように感じられたから。

「時」を纏っているということは、変化するということ。

変化するということは、運動するということ。

運動するということは、生きているということ。

そんな靴下に、不気味さを感じて一度スルーし、すぐに捨てた。

勝手に生を宿して、怖くなって捨てて。

 

そんな話。

 

 

 

東京03の角田が亡くなった。

僕はYouTubeで新作が公開されるたびにすぐに見に行くくらいには東京03が好きだから、とてもショックだった。

亡くなった数日後、テレビで残された2人がコントをしていた。

番組は角田の死に触れず、2人もいつもどおりの様子だった。

それは2人用のコントだったのだけれど、徐々に、時折、角田の空白を感じるような気がした。

ある瞬間、これは2人が意図的に空白を匂わせているんだと気づいた。

どうしてかと聞かれても、わからない。

ふつうに2人でコントをしているだけだし、3人目の人物がコントの中で示唆されたわけでもない。

それでも確かに2人は角田の空白・喪失・そこにいたはずであったことを、視聴者に示そうとしているように見えた。

気付いたら目頭が熱くなっていた。

心なしか、朗らかに笑う飯塚の目も潤っているように見えた。

 

 

っていう夢をみた。

今年いちばん感動したなぁ。

 

 

日記

妙に体が疲れたから、まだ早い時間だけどもう寝ようかと思ってる。

寝ることは好きか嫌いかで言えば好きだし、十分な睡眠をかなり大事にしているけど、寝ることは毎日少しだけ怖い。

毎晩意識を失って、回復する。

その繰り返し。

眠りにつく瞬間のことは誰も知らない。

眠りにつく瞬間のことを考えてるといつまで経っても眠りにつけなくて、でもいつの間にか眠っていて、起きて初めて眠っていたことに気づき、そんなことを考えていたことすら忘れてしまう。

得体の知らない力が毎日自分を意識のない世界へと引きずり込んでいるような気がして、その世界と死との間に違いがあるのかわからない。

これまで20年間、毎日寝る度に起きることができたけど、それはたまたま奇跡的なことが積み重なってきただけで、もう二度と起きれないことがあるのかもしれない。

永遠の眠りというのは比喩でもあるけど紛うことなき事実でもあって、でも永遠というのは実在するのか概念なのかわからなくて。

永遠という言葉を聞く度に、小さい頃に読んだ宇宙大百科みたいな大きな本にあった、「地球も6億年後には太陽に飲み込まれて無くなると言われています」と書かれたページを思い出す。

6億年後だったか40億年後だったか1年後だったかは覚えてないし、それが本当なのかも定かじゃないけど、地球がなくなった後にも永遠ってあるのかなということや、地球が滅びる瞬間人類は何をしているのだろうなどと、とりとめもない想像をして怖くなる。

そしてそんなことを考えていると、宇宙の中で、でもその宇宙でさえも絶対的な存在ではない中で、自分というのはホントに一瞬の微粒子みたいな存在なんだなと思って、なぜいま自分が比喩ではなく地に足つけて立っているのかがわからなくなる。

そんなことを幼少期から繰り返していて、大人になったらこんなこと考えなくなるのかなと思っていたけど、どうやらそうでもないらしい。

あるいは自分はまだ大人じゃないということなのか。

こんなことを考えていると寝るのが少し億劫になって、もう少し起きていようかなと思う。

 

関係ないけど、小学校4年生か5年生で初めてハリー・ポッターの第1巻(賢者の石)を読んだ頃、1人で部屋にいたりシャワーをしたりしていると、突然背後にヴォルデモートが取り憑いたクィレル先生がいるような気がしてきて、後ろを振り向くのが怖かった。

永遠や宇宙について考える瞬間と、この怯えながら後ろを振り向く瞬間は、自分の子供の頃の記憶の中で、同じ引き出しにしまってあって、よく同時に思い出す。

さすがにクィレル先生に怯えることはもうないけど。