靴下の生

ちょっと前のことだけれど、アパートの3階の自室のベランダで洗濯物を干していたら、靴下を一足外に落としてしまった。

そんなことないだろうと思うかもしれないが、バスタオルを干そうとした時にバスタオルに靴下が乗っかっていることに気づかず、あの一瞬に何が起こったかは説明できないけれど、とりあえずいつの間にか落ちていた。

「あ、」「やってしまった」と思うと同時に、「取りに行くのめんどくさいな」と思った。

もちろん靴下が落ちているのはアパートの前の公共の道だから、誰かに迷惑をかけないように取りに行くのが人として正しいこととは認識していたけど、その正しさよりも面倒臭さの方が勝っていた。

たとえばバスタオルとか、下着とか、他のものを落としていたらきっとすぐに取りに行ったけど、ユニクロでまとめ買いしてからたぶん1年くらい履いている靴下だし。

いっそのこと、と思って、結局落とした靴下は取りに行かずに、ペアの片割れのもう一足の靴下も、ゴミ箱に捨てることにした。

その日は外に出ることなく家で1日を過ごし、翌日外に出たときには靴下はどこにもなかった。

 

それから2週間ほど経ったある日のこと。

バイトを終えて帰宅すると、アパートの玄関口に落とした靴下が置いてあった。

「だれかが拾って置いてくれたんだ、迷惑かけて申し訳ないな」と罪悪感を抱いた。

それと同時に、この2週間靴下はどこにあったんだ??という疑問が生まれた。

風に飛ばされたりして2週間だれにも見つからなかったのか?

それともだれかが2週間保管していたのか?

なんだか怖くなって、置いてある靴下を1回スルーして通り過ぎた。

そしてすぐに、まただれかの手を煩わせるのは申し訳ないと思い、戻って靴下を手にとって家に帰り、靴下をゴミ箱に放り投げた。

2週間という時間差で捨てられた靴下のペアに思いを馳せ、この靴下にとって2週間は長いのだろうか、短いのだろうか、それとも時間なんて存在しないのだろうか、と考えた。

なんだか怖くなって1回スルーしたのは、その靴下が2週間の「時」という意味を帯びているかのように、「時」を纏っているように感じられたから。

「時」を纏っているということは、変化するということ。

変化するということは、運動するということ。

運動するということは、生きているということ。

そんな靴下に、不気味さを感じて一度スルーし、すぐに捨てた。

勝手に生を宿して、怖くなって捨てて。

 

そんな話。