7年か8年前

冷蔵庫と壁の隙間に箸を1本落とした。

お酒を割ったときに混ぜる棒が欲しいところだったから、残ったもう1本をそれにした。

ラッキー。

 

 

髪を切りに行ったら、両隣のお客さんは美容師さんと会話を弾ませていて、自分は積極的に話すタイプではないし、美容師さんから話しかけられることもなかったので黙っていた。

いつもそうだからそれはそれでいいのだけど、両隣があまりにも楽しそうに喋っているから、美容師さんに申し訳ないような気まずい気持ちになった。

でもこの申し訳なさも気まずさも自分が感じる必要性は本来ないし、どちらかといえば話しかけない美容師さんの方が悪い気がするし、でも別に美容師さんも悪くないし、じゃあ誰が悪いのかといえば意気揚々とガウディの建築について話していた隣の30代くらいのお客さんか、それともガウディか。

 

 

気になっていた近所のいい感じのカフェでコーヒーをテイクアウトした。

そんな毎日を送りたい。

 

 

7年前か8年前くらいの今日。

中学生だった自分は部活帰りにカラオケに行っていた。

30分17円だったか32円だったか、雑居ビルの2階か3階かにあったとにかく激安のカラオケ。

ラッドとか歌っていたら14時46分を過ぎていて、そのことに数分後に気づいて、

人の道に反したような、神様に見られていたような

でもみんな何も気にしてないし気づいてないし、まぁいっか

いや少なくともカラオケはよくないよな

と薄暗い狭い部屋の中で誰かの歌を聴きながら、ひとりそんな気持ちに包まれたのを思い出す。

 

 

より良い世界をつくるために何が大事か、と聞かれたら

ひとりひとりが想像力を持つことだと自分は思う。

相手の立場になってみたり、相手にもいろんな事情や背景があるのだと考えたり。

けれど、それと同じくらいに、想像はあくまで想像でしかないということ、想像と実際には確実な隔たりがあると認識することが必要だと最近は思う。

想像して誰かの気持ちをわかった気になったり、被災してないのに被災者と同じ感情を抱いていると思ったり。

想像はあくまで想像であり、体験していない自分と体験した他者は違うということ。

「自分は相手のことを知らない/自分は相手とは違う」という自覚と、それを補おうとして想像する営みと、「想像しても本当のことはわからない」という自覚がセットで必要なんだと思う。

「〜ない」ことも自分を形成する大事な要素で、その欠落を自覚すればアイデンティティとなる。

震災やそれ以外のことも、経験していない人間としてどうあるべきかということを、経験した人も経験していない人も、いろんな人が行き交う東京に来て、考えるようになった。

もうすぐ上京して丸3年経つが、それだけでも上京してよかったかもしれないと思う。