2022
飛行機で窓側の席に座ると、同じ列の2人に対して窓の開け閉めという役割を果たさないといけない気がして、若干の責任を感じる。
隣の2人が眩しそうだったら閉めて、「左手に富士山が見えます」とアナウンスされたら開けて、やっぱり眩しかったら程よいところまで閉めて。
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社会人になったらもう乗らないと思ってたJetstarを予約して、社会人になったらもう行かないでいいと思ってた成田空港第3ターミナルまで行って、窓を開け閉めして。
そんな1日で2022年が終わろうとしている。
終わりよければ全て良しと言うけれども、良いのか悪いのかよくわからない。
さっき窓から見えた富士山が綺麗だったから、それで良かったと言えるかもしれない2022。
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こないだ先輩と飲んだとき、「東大に行って何をいちばん学んだの?」と聞かれた。
正直これといってなにかひとつの学問分野を深く学んだわけではなく(自分の向学心と学部のシステムの両方にその要因はある)、
その場では歯切れ悪くそれっぽいことを言ってお茶を濁して緑茶ハイを飲み、
カラオケでGReeeeNの「キセキ」でMVにお婆ちゃんが出てきたら酒を飲むというくだりで盛り上がり、
GLAYの「Winter Again」のMVでTERUと目が合ったら酒を飲むというくだりで盛り上がり、
帰って、
寝て、
翌朝出勤しながらふとその質問を思い出して考えた。
色々考えて最終的に自分の中でしっくりきた答えは、
「東大に行ったからと言って、なにかを得られるわけでもなければ、なにか成功できるわけでもなく、ましてや幸せになれるわけでもない」
「仮に東大に行くことそのものが”成功”だと言われるとしたら、”成功”したからと言って毎日を幸せに生きれるわけではない」
ということ。
これは別に特別に自分が僻んでるとか現状に不満を抱いているとかそういう類の話ではなく、
努力して夢を叶えても、世間的には羨ましがられる肩書きを手にしても、それでオールハッピーになるわけではないということ。
きっとメッシもエンバペも大谷翔平も村上宗隆も星野源も齋藤飛鳥も、きっとそれぞれに悩みを抱えて、日常に小さなストレスと喜びを抱えながら生きている。
当たり前といえば当たり前だが、その想像力を持つことが今の社会には必要だと思うし、それを学ぶことができたのは非常に自分にとって(特に、自分は人々の憧れをビジネスとする一面を持った仕事をしているので)大きいことだったと思う。
それとは反対に、自分が学んだ社会学では、様々な位相で社会的に弱者とされる人々について学ぶことが多かった。
犯罪を犯した人にも、どんな人にも、それぞれの正義と論理があることを学んだ。
(有識者からのツッコミは怖いですが自分が印象的に学んだことはそういう感じ)
自分が優しい人間だとはそんなに思わないし、周りの人もそんなに思ってないと思うけど、
自分以外の他者に対して想像力を持つことが優しさだとするならば、
大学4年間で、少しは優しい人間に近づけたのではないかなと思う。
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飛行機はワクワクする。
強制的に電波を遮断されることで社会から離れられる気がすることも大きいし、何より景色がいい。
飛行機の窓から見える空は綺麗で、眼下に一面に広がる雲をみてると、雲の上に着陸できるんじゃないかと本気で思えてくる。
でも実際にはそれは水分でしかなく、水分の中を飛行機は突き破って着陸体制に入る。
突き破った先にはあんなに綺麗だった空はどこにもなく、一面に雲が広がる微妙な天気。
見下ろす雲はフワフワだが、見上げる雲は重たい。
眼下には文明の果ての都市が広がり、急に現実社会に引き戻される。
なにかを喩えているようで、なにを喩えたらいいのか思い浮かばないけれども、人生とはこういうものだと思う。
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電波が入らない飛行機の中で何かを書こうと思い立ち、書き終わらないうちに年を越してしまった。
2023も気楽に生きたい。
dボタン
投票に行こうと思ったら、3月下旬に引っ越した関係で、前住所の近くの投票所まで行かないといけないことに、投票券の封筒を開けてから気づいた。
1日特に予定がない日だったから片道40分かけて行けないことはないけど、正直面倒な気持ちになる。
ネット投票ができたら楽なのに。
ネット投票がなかなか実現しない理由は色々あるんだろうけど、部分的にでも実現できる折衷案はないんだろうか。
そんなことを考えていたら、ふと思い出した。
我々にはdボタンがあるじゃないか、と。
あれだけテレビはいつも「dボタンで視聴者投票」と煽っているのだから、
MステでToshiが何を歌うかとか、
Mステで最強ウエディングソングを決めるとか、
MステでSnow Manのキスポーズを視聴者が選ぶとか、
そんなことよりもっと有意義なことに使うべきではないか。
共産党は赤、小池百合子は緑、青・黄・赤の3色を同時に押したら公明党、という感じにボタンを決めたらわかりやすい。
19時から選挙特番を始めるなら、投票が締め切られる20時までの最後の1時間、dボタンでの投票をテレビで呼びかけたら投票率も爆上がりするだろう。
という社会的意識の高いブログでした。
(色のくだりを思いついて書きたくなっただけ。)
日記
メガネを新調したい。
特に目が悪くなったわけではないけど、もう少しいい感じの、ちょっとオシャレに見えたり、知的に見てたり、かっこよく見えたり、優しく見えたり、方向性は未定だけどとりあえずいい感じのメガネに変えたい。
でもそれなりのお金を払って「いい感じ」を手に入れたところで、基本的には外に出るときはいつもコンタクトをしているから誰にも見てもらえないということを考えると、買わなくてもいいかなと思ってしまう。
という話。
✳︎
とてもありふれた話だけど、地位やお金や名誉があるからといって、それは幸せとは関係ないという事実を突きつけられている。
他人から見たら華やかとも言えるような、羨望の眼差しで見られることもあるような、履歴書だけを見たらそれなりに立派な経歴が連なっているということは自負している。
でも、でも、と最近は思うことが多い。
BADモード。
✳︎
食後のドリンクは食後に選ばせてほしい。
食後に何を飲みたいかは、これから食べるもの次第だし。
自分はどうせコーヒーだけど、アイスの口か、ホットの口かは予想が難しい。
だから食後に選ばせてほしいという、ただそれだけの話。
運転
運転できない。
できないというか、2年前に免許をとってから一度も運転していない。
だから、資格という意味ではできるけれど、気持ち的には、おそらく能力的にも、運転できない。
たとえば恋人がいたとしても、ドライブデートに連れていくことはできない。
自然に慣れた様子で運転席に座ることができたら、かっこいいだろうなと思う。
もしドライブデートに恋人を誘い自分が運転するとしたら、自分の運転の不慣れさ、安定感の無さに相手はきっとヒヤヒヤするだろう。
ヒヤヒヤして、ドキドキして、もしかしたら今日で死ぬかもしれないと、親への最期の別れのLINEを助手席から送るかもしれない。
でもそれはそれで、いわゆる吊り橋効果というやつで、2人の仲を近づけることに寄与するのかもしれない。
慣れた手つきで運転してかっこいいと思われるのと、不慣れな運転を通じて吊り橋効果に期待するのと、どちらのほうが有効なのだろう。
自分は今のところ吊り橋効果に期待するしかなさそうだけど、でもこれはつまり、運転しさえすればどっちに転んでもプラスに働く可能性が高いということ。
そう考えると運転してみてもいいかなとふと思った、そんな話。
Friend Ship / 星野源
※とある課題で2年前に書いた文章です。今のほうがもう少し良く書ける気がする。
星野源の4thアルバム『YELLOW DANCER』(2015)の最後の曲。
君の手を握っても、胸の窓を開けても、《わからないまま》だと繰り返し歌いあげるこの曲は、ポップで明るいメロディでありながらも、哀しく切ない。
着実にリズムを刻んで時を歩めるビートと、”まま”という言葉の重なり(唇を閉じてから発せられ吸着感あるマ行の音が強調されることで、時の流れに逆らう響きを感じるのは筆者だけか)によって、一方向に流れる時の中で未来と過去に引き裂かれ、その引き裂かれた間隙にカタルシスが生まれる。
そして未来と過去に引き裂かれる中で、私たちはイマ=現在を生きているのだということに気づかされるのだ。
最後に唐突に《わかりあった》と歌い、《手を振りながら/離れゆく場所で/笑い合うさま》と終わるのは、アルバムの締め括りとしてのリスナーに向けた希望と惜別か。
どれだけ身近な存在でいても”わからない”——私とあなたはどこまでも絶対的に異なる「他者」である——という人間の普遍的で、身も蓋もない苦悩をそのまま音楽に乗せながら、そこにカタルシスを見出して最後にそっと希望を添える。
彼にしかできない、至極のポップ・ミュージックだ。
感電 / 米津玄師
※とある課題で2年前に書いた文章です。なんか拙い。
ホーンの音が印象的で、ジャズやファンクのエッセンスを昇華した音像におもしろさを感じる、久しぶりの肩の力が抜けたポップス。
そんなことを思いながら聴いていたら、2番サビ後のトリッキーな展開で頭がぐわっとなる感覚が癖になって、やはりただのポップソングでは終わらない。
ファンの中には1番の《ワンワンワン》2番の《ニャンニャンニャン》を彼が歌う姿に想像を膨らます人もいるだろう。
その後に挿入される犬と猫の鳴き声のサンプリングも含めて、そこにあるのは彼の遊び心のようにも解される。
しかし米津玄師といえば、これまでにいくつもの”変な音”を忍ばせてきたミュージシャンである。
歴史的な大ヒット曲となったバラード『Lemon』でも”ウェッ”という謎の音は注目されたし、『Flamingo』では肉体から発される、およそ音楽からは遠いような様々な音がサンプリングされている。
彼が発表してきたボカロ曲の中でもメロディも言葉も持たない”変な音”はたびたび登場しており、その延長線上に今回の犬と猫の鳴き声も捉えられるのではないか。
思えば彼は、沖縄民謡にインスパイアされた『Flamingo』やデジタルクワイヤを多用した『海の幽霊』、現代音楽を取り入れた『パプリカ』のように、これまでJ-POPにはなかった音をJ-POPに昇華して、オリジナリティとポップの普遍性の両立を誰も追随し得ない水準で実現してきた。
そんな彼にとって、一連の”変な音”の挿入も彼の音楽への挑戦であり、『感電』ではそれを”遊び心”でカモフラージュしながらやってのけているのかもしれない。
ポップな中にも音楽的挑戦をし続ける、彼の真骨頂と言える楽曲だ。